で、先日テレビで「耳をすませば」を見終えた後に、「この訳詞ってどういう解釈なんだろう?」って思って歌詞を噛みしめて聴いてみたのですが(TSUTAYAで「ジブリ主題歌集」的なCDまで借りてきてしまった)、なんかどうもしっくりとこないんだよなぁ~、この訳詞。
「こんな詞、宮崎駿書くのかなぁ~」というのが率直な感想。。。
でまぁ勝手に宮崎駿氏が書いた訳詞と思いこんでいたんだけれど、どうやら事実は鈴木敏夫プロデューサーの娘さん(鈴木麻実子 当時19歳とか?)が意訳したものを宮崎氏が補足詞されたということらしい。
どの部分をどう補足されたのかは分からないけれど、それにしてもちょっとどうだろうか?と思ってしまう。
耳すま版「カントリーロード」歌詞全文はこちらから
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カントリーロード・本名陽子 歌詞情報 - goo 音楽

もちろん19歳の女性が書いた詞(映画の設定では14歳の女の子が書いた詞)であるから、40すぎのオヤジが読んで違和感あるのはしょうがないのかもしれないけれど、
でもそのことを差し引いてもさらに、若者が希望と不安を胸に、勇気を持って夢に向かっての突き進む歌にはとても聞こえない。。。
そもそもなんで「カントリーロード」なのだろうか?柊あおい女史の原作でもカントリーロードなのかな?(どうやら違うみたい)
何かこの歌詞を読んでいると「故郷には帰ってくるな!」とさえ聞こえてくる。
原曲の「Take Me Home, Country Roads」が郷愁を誘い帰郷への想いを募らせ、それでも本当は帰るに帰れない聴き手(リスナー)への一服の清涼剤の様に沁みわたる詞に対して、
この耳すま版「カントリーロード」はとにかく「夢が叶うまでは独りで強く生きていけ!立ち止まるな歩き続けろ!故郷なんかに戻ってくるな、そんな思い出消してしまえ!」
と、なんだか若者が若者に対して強迫観念を植え付けてくるような詞に聞こえてくる。
「故郷との決別!」そんな意志すら感じさせる。
そりゃ~確かに若者が夢に向かって突き進む時にはそれくらいの覚悟は必要だとは思うけれども、でもそれでも故郷(ふるさと)はあなた達を待っているよ、歩き疲れたらいつでも戻っておいで、と
そう歌うのが「カントリーロード」だと思うし、まさに曲調もそういう曲調になっている、はずなのに、、、詞と曲とにアンバランス感が合って、そもそもなんでこの曲を使用したのだろうかと激しく疑問思う。
こんな風に思うのはSINSEIだけだろうか?少なくともSINSEIはこの詞を読んでもなんの希望も勇気もわいてこない。。。
そりゃ~確かに、室生犀星は「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と歌ったけれど。。。(ただしこの犀星の詞には解釈が諸説あるらしい。)
一例として
室生犀星「小景異情」 - 文学 - 教えて!goo

で、ずっと違和感抱えながら「宮崎駿はこの詞で何を訴えかけたいのだろうか?」と疑問に思っていたんだけれど、先日たまたまYouTubeでのこの耳すま版「カントリーロード」を聞いていてふとコメント欄に目をやると、こんなコメントが書かれていた。
カントリーロード-本名陽子

以下、コメント欄より引用
ふるさと って場所的なものだけではなく、戻れない青春の一時とか そういうモノも含まれていて 切なくなりますね。 でも ”ひとりぼっち 怖れずに 生きようと 夢見ていた” 大人への一歩を自らの決意で踏みしめる歌でもありますね。 ひとりで生きる一歩を踏みしめて 初めて ひとりでは生きられない 厳しさ、怖れを感じ 若い時の万能感が消え大人へ成長する。そして ふるさと を思う 、、、すごく深みのある訳詞だなーと思いました。
なるほど、東京生まれで東京育ちの雫にとって故郷とはその場所では無くて、そこで過ごした時間と捉えることもできる。
野山を切り開いて人工的に作り上げられた雫の住む多摩ニュータウン、そこにはすでに「ふるさと」としての原風景は無く、むしろそこで過ごした思い出こそが「ふるさと」なんだと。
つまりこの歌詞はこの映画を見ている我々大人たちに向けてのメッセージだったのか!?
こんなサイトを見つけました。
「耳をすませば」にはまれば - 結局、郷愁なのか? これは!

大人世代がこの物語にはまってしまうのはいつか来た道だからなのだろう。確かにあったあのころだと思えるからに違いない。
戻れない昔の時間--帰りたい 帰れないふるさと--帰れないのは距離ではなく時間だからだ--つまりはふるさととは幸せな時間--
戻れない昔の時間--帰りたい 帰れないふるさと--帰れないのは距離ではなく時間だからだ--つまりはふるさととは幸せな時間--
ただ面白いのはこの映画は「郷愁否定」「ノスタルジーの否定」では無いというところがまた面白い。
なぜなら地球屋の主人 西司朗はまさに郷愁の人だった。
そして雫は夢に夢見ることを経て現実に目覚める。
さらに天沢聖司はその郷愁の中に現実を見出す。
ただその「思い出」の中に埋没するなと、その思い出の入口に立って郷愁に浸ってもいいけれど、明日は現実を生きろと、そういうことが言いたいのかなぁ~。。。
ただやっぱり「思い出」は消さないで、大切に胸の奥底にしまっておきたい。だってそれは「磨くとかえってつまらないものになってしまう」自分自身の原石なのだから。。。
な~んて、だんだん良く分からなくなってきたのでこの辺にしておきます。
耳をすませば - 幸せな時間

以下引用
コミックでは、実は続編があります。
「耳をすませば」より、構成を単純化したやや短めの作品です。
ちょっとネタバレですけれど、そのラストシーンの話です。
なんでもわかる猫の図書館で、雫は心の内側に捕われて時間を忘れます。
バロンに会って、雫の時を刻む時計は再び動き出し、地球屋に二人で戻ります。
「・・・さあ 幸せな時間をすて
次の世界へ-
・・・でも もう少し ここで」
そうです。
映画のラストではプロポーズで終わっています。
けれど、原作では、
幸せな時間を、もう少し、
なのです。
「耳をすませば」より、構成を単純化したやや短めの作品です。
ちょっとネタバレですけれど、そのラストシーンの話です。
なんでもわかる猫の図書館で、雫は心の内側に捕われて時間を忘れます。
バロンに会って、雫の時を刻む時計は再び動き出し、地球屋に二人で戻ります。
「・・・さあ 幸せな時間をすて
次の世界へ-
・・・でも もう少し ここで」
そうです。
映画のラストではプロポーズで終わっています。
けれど、原作では、
幸せな時間を、もう少し、
なのです。
この道 ずっとゆけば
あの街に つづいてる>天国界、エデンの花園、自然世界などに続いている。
きがする カントリーロード
ひとりぼっち おそれずに
生きようと 夢みてた>全ての魂は神様によって生かされているのに自分で生きていると夢見てた(勘違い、誤解、無知、不(未)分別など)。
さみしさ 押し込めて>真の神向、我慢、陽気、感謝、元気+思考などで。
強い自分を 守っていこ>高い次元、強い自分の魂を維持するために有難く厳しい+修行させて頂こう!。
歩き疲れ たたずむと>人生苦楽。小休憩。
浮かんで来る 故郷の街>高次元に頂く(厳しい+修行により天国界の方へ上って行くと)とかつて自分の故郷の天国界(街)、エデンの花園の様な世界がひろがっていく(顕現)。
丘をまく 坂の道>天上真上真中心世界へ行かせて頂くための求心力働き左回りぐるぐる坂道。
そんな僕を 叱っている>神様の叱咤激励。
カントリーロード
この道 ずっとゆけば
あの街に つづいてる
きがする カントリーロード
どんな挫けそうな時だって>失敗、へま、苦心、挫折などをしようとも。
決して 涙は見せないで>真に泣きたい時は遠慮せず泣くよ。
心なしか 歩調が速くなっていく>苦しみ、誤解、勘違い、執着、恨み、未練、後悔など無くなり高速上昇させて頂く。
思い出 消すため>現世、前世の嫌な記憶、思い出を(厳しい+修行で)消させて頂く。
カントリーロード
この道 故郷へつづいても>天国への道。三千世界(天国)へ続いていても。
僕は 行かないさ>行かせて頂きます。
行けない カントリーロード>行かせて頂きます。
カントリーロード
明日は いつもの僕さ>明日こそ神(真、新、芯)魂に(神聖、真正)!。真に悟れる(覚れる)さ!。
帰りたい 帰れない>帰させて(変えさせて)頂きます。
さよなら カントリーロード>左様なら 天国への道。
超自分勝手な(自己中解釈かもしれない?笑)解釈です(笑)!!!。